心と体の関係を考えるブログ

過敏性腸症候群(IBS)と20年向き合った経験や最近になって慢性化しかけた腰痛に苦しんだ経験を通して、心と体の関係に興味を持つようになりました。調べて学んだことや経験したことを記事にしています。

お腹が弱い歴史上の人物-徳川家康

徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)

徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)

 

調べてみると、歴史上の人物の中にも「お腹が弱かったのではないか」と考えられている人たちがいます。これまで西郷隆盛、石田三成を取り上げましたが、今回は徳川家康(1543~1616年)をご紹介します。

 

戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開くという偉業を成し遂げた徳川家康ですが、彼についても「お腹が弱かった」という説があります。ということは、天下分け目の戦いであった「関ヶ原の戦い」の両軍の総大将(西軍:石田三成、東軍:徳川家康)のお腹が弱かったことになります。


※厳密には、西軍の総大将は石田三成ではなく毛利輝元でした。ただ、いろいろあって毛利家は戦いにほとんど参加しませんでしたので、実質的なリーダーは石田三成でした。

 

エピソードとして、「三方ケ原の戦い」で武田信玄に敗北して浜松城に逃げ帰る途中、武田軍に追いかけられたことによる極度なストレスで便失禁してしまったという話が記録に残っています。

 

戦争のストレスというのは極限レベルですから、誰でも便失禁することがあってもおかしくはありません。ですから、このエピソードだけをもって家康のお腹が弱かったと結論付けるのは強引と言えるかもしれません。でも、家康レベルの人でもそんな恥ずかしい経験をしていたというのは、IBS患者にとっては慰めになりますね。

 

徳川家康の生涯をざっくり解説

徳川家康の生涯をざっくり解説

人質時代

徳川家康は1542年に、三河国(愛知県の東側)を治めていた松平広忠の長男として生まれました。生まれた時は竹千代(たけちよ)と呼ばれていました。

幼い時に、最初は織田家、次に今川家の人質となりました。元服後は、今川義元の名前の一字をとって松平元康と名乗りました。

 

独立

1560年、今川軍の先鋒として「桶狭間の戦い」に参加した家康は、織田信長の奇襲攻撃で義元が討ち取られた後の混乱に乗じて三河国の岡崎城に入り、独立の意思を表明しました。信長と同盟を結んで今川と断交し、改名して「家康」と名乗りました。

 

勢力の拡大

その後、三河の国人衆を調略するなどの方法で勢力を拡大し、義元の跡を継いだ今川氏真の勢力を追い払って三河国を完全に手に入れました。そして、「三河守」の官職を得るために、1567年に姓を松平から徳川に改め、徳川家康という名前になりました。

1569年には今川家を滅ぼし、三河国の東に位置する遠江も手中に収めました。

 

武田家との戦い

その後、遠江に侵攻してきた武田軍と戦いを繰り広げますが、「二俣城の戦い」(1572年)や前述の「三方ヶ原の戦い」(1573年)で敗北を喫し、ピンチに陥ります。

しかし、1573年に武田信玄が病死したことにより、形勢が逆転しました。そして、織田軍の主力と共に戦った1575年の「長篠の戦い」で武田軍に勝利し、1582年には武田家の領土である駿河に奪取しました。

 

本能寺の変

1582年の本能寺の変で信長が明智光秀の裏切りによって倒れた時、家康は堺にいましたが、少人数の仲間しか連れて来ていなかった家康は狼狽して切腹も覚悟したらしいですが、家臣の助言もあり冷静さを取り戻し、何とか三河国へ逃れました。その後、光秀の討伐へと向かいますが、その時点ですでに豊臣秀吉が光秀を倒していました。

 

秀吉との対立

その後、秀吉が織田政権の中で台頭しました。家康はこれを快く思わない信長の次男信雄と手を組んで秀吉と「小牧・長久手の戦い」(1584年)で対決しましたが、最終的には秀吉優位の状況で和睦し、家康は秀吉に対する服従を認めました。

 

秀吉の配下

1590年には、秀吉に対する服従を拒んでいた北条家を滅ぼすことに貢献しました。その後、秀吉により、それまで領有していた駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国(上杉領の川中島を除く)の5ヶ国を取り上げられ、代わりに北条氏の旧領であった関東の領土を与えられました。これにより、家康は居を江戸城に移すことになりました。

死期が近づいていた秀吉は、後継者の秀頼を支える体制として「五大老」、「五奉行」を置くことにしましたが、家康はその五大老の一人に選ばれました。

 

天下人となる

秀吉の死後は五大老の筆頭として政権内で台頭し、五奉行の一人である石田三成と対立しました。この対立は最終的に1600年の「関ヶ原の戦い」につながりました。

この「関ヶ原の戦い」で勝利した家康は「天下人」としての地位を固め、1603年に征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。

 

豊臣家を滅ぼす

江戸幕府を開いた後も、豊臣家がまだ生き残っており一定の求心力もあったため、家康にとって脅威となっていました。そこで、1614年~1615年にかけて行われた「大坂冬の陣」と「大坂夏の陣」の2回の戦いで豊臣氏を滅亡させ、日本の完全支配を実現させました。

 

死去

ただ、そのわずか1年後、家康は病に倒れ、世を去りました。

 

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記事の最終更新日:2021年1月26日