渡米時に撮影された写真
調べてみると、歴史上の人物の中にも「お腹が弱かったのではないか」と考えられている人たちがいます。これまで西郷隆盛、石田三成、徳川家康を取り上げましたが、今回は勝海舟(1823~1899)をご紹介します。
勝海舟は、西郷隆盛と同時代の人です。旧幕府側の人間でありながら、時代の先読みをし、明治維新に貢献しました。
勝海舟が西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城を実現したことは有名です。平和裏に江戸幕府を終焉させたことで、多くの命が無駄に失われることを回避することができました。歴史の転換点となる出来事にお腹が弱い二人が関係していたことになりますね。
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そういえば、やはり歴史の転換点となった関ヶ原の戦いにも、お腹の弱い二人、つまり徳川家康と石田三成が関わってしましたね。世の中を変えてきたのは、お腹が弱い人たちなのかもしれません。
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勝海舟の「お腹弱いエピソード」に、「使節団の一員として渡米した時に船酔いと下痢でほとんど部屋から出られない状態になった」という話があります。ただ、船酔いになればお腹が弱くなくても下痢になることは十分に考えられる気もします…。
勝海舟の生涯をざっくり解説
誕生~出世
勝海舟は下っ端の貧しい武士の家に生まれました。父親はあまり優秀ではなく生涯無役だったそうですが、海舟は剣術や蘭学を熱心に学び、能力を伸ばしました。
1853年の黒船来航に衝撃を受けた幕府は、海防に関わる意見を身分にかかわりなく募集しましたが、その時に海舟が提出した意見が老中首座の目に留まり、出世のきっかけとなりました。
アメリカへ
その後、長崎で最新の学問や航海術などを学び、1860年には咸臨丸(かんりんまる)という蒸気船に乗ってアメリカに渡り(そして下痢に苦しんだ)、当時訪れる人がほとんどいなかった外国の様子を見て学びました。
日本海軍の創設
帰国後、当時の将軍・徳川家茂に直訴して「神戸海軍操練所」を創設しました。幕府ではなく日本全体のものとなる「日本海軍」を作り、欧米列強に対抗しようとしたのです。
無血開城
その後、江戸幕府を倒そうとする新政府軍との戦いが起来た時に、勝海舟は当時の将軍・徳川慶喜の命令を受けて敵方と交渉し、戦わずに江戸城を開城する事に成功しました(無血開城)。
明治維新後
明治維新後、徳川家と共に駿府(現在の静岡)に移りましたが、新政府から相談を受けて東京に出ることも多く、勝海舟は旧幕臣の代表格としてさまざまな政府の役職を歴任しました。また、朝敵となった徳川慶喜を赦免させることに尽力し、徳川家を守ることもしています。さらに、最終的には新政府の敵として命を落とした西郷隆盛の名誉回復にも奔走し、上野の銅像建立を支援することもしています。
死去
晩年は赤坂氷川に住みました。1899年、風呂上がりにブランデーを飲んで脳溢血で倒れて亡くなりました。死の直前に「コレデオシマイ」という名言を残しています。
記事の最終更新日:2021年2月2日