肖像画(東京大学史料編纂所所蔵)
調べてみると、歴史上の人物の中にも「お腹が弱かったのではないか」と考えられている人たちがいます。前回は西郷隆盛を取り上げましたが、今回は石田三成(1560~1600年)をご紹介します。
石田三成は、神経質でデリケートな人だったとされ、「三成腹」といわれるほどお腹が弱かったそうです。関ヶ原の戦いも、下痢のためにうまく指揮をとれなかったために敗北したという話もあるくらいです。
日本大学医学部の早川智教授は、著書「戦国武将を診る」の中で、石田三成は過敏性腸症候群(IBS)にかかっていたのではないかと述べています。過敏性腸症候群はストレス社会が引き起こした現代病ともされていますが、昔にもかかっていた人がそれなりにいたのかもしれませんね。
石田三成の生涯をざっくり解説
石田三成は1560年に、近江(現在の滋賀県)で生まれました。豊臣秀吉に気に入られたことをきっかけに、10代半ばからその小姓として仕え始めます。
中国攻め(織田信長の家臣だった秀吉が毛利家を侵攻)や賤ケ岳の戦い(信長の死後、後継者争いで秀吉が柴田勝家を破った)で秀吉に従軍し、次第に要職を任されるようになった。ただ、三成は戦いが得意だったというよりは、内政で才能を発揮したそうです。
朝鮮出兵の際も戦闘には直接参加せず、物資や兵の輸送全般を指揮しました。秀吉がいろいろな戦いで大軍を機敏に動かして優位に立てた背後には、優れた管理能力を持つ三成の支えがあったと言われています。
ただ、戦いに直接関わらない姿勢ゆえに、現場で命を懸けて戦う勇猛果敢な武将たちとは対立しやすかったそうです。関ヶ原の戦いでは、豊臣家存続のために徳川家康と戦いましたが、三成のことをよく思っていなかった多くの武将たちが家康側に付いてしまいました。これも、敗因の1つとされています。
三成は、同戦いで捕らえられ、処刑されてしまいました。いわゆる武闘派の人たちからはあまり慕われていなかった三成ですが、最後まで豊臣家への忠義を尽くしたことを「男らしい」と評価する声も多々あります。
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記事の最終更新日:2021年1月5日